天才もそれ相応の努力をしてるって話

皆んなの周りには勉強ができる人、スポーツができる人、ポケモンが上手い人はおそらくいるだろう。自分よりもその物事に長けている人は世の中にたくさんいる。

もちろんその中には類稀なる才能を持つ人もいる。大した努力をしなくても自分を軽々と超えていく人もいる。天才と呼ばれ、どんな物事もできてしまう非凡な人もいる。

 

自分で言うのはなんだが、私は努力家だと思う。入った部活ではどれもレギュラーを取れたし、高校では地元で有数の進学校に進学できた。どれも自分なりの努力を積み重ねてきた賜物だとは思ってる。

でも高校に入って自分の努力は打ち砕かれる。自分よりも頭のいい奴はごまんといた。みんなが勉強してない1年生の頃こそ成績は良かったものの、受験期にはみんなに追い抜かれていた。努力をしたところで到底埋まらない差があると当時は思っていた。

頭のいい奴の話を聞くと、英単語帳を10周したとか、数学の問題集を5周したとか、化け物みたいに勉強してることがわかった。でもそれは頭のいい奴だからできることで、勉強しても分からないことが多い自分とは無縁のことだと思っていた。

そうして自分は大学受験に失敗した。その時は死ぬほど学歴コンプを感じたし、頭のいい奴が羨ましかった。勉強できるやつを妬んだ。

 

僕は大学に入るときに決めていたことがある。それは、大学生活の中で今後生きていく中で、何か一つ自分の人生観に役立てるものを見つける、ということである。

そのなかで僕が打ち込んだのがポケモンである。たまたま同志社大学ポケモンサークルがあったからかもしれない。もし今出川キャンパスに広いグラウンドがあればフットサルサークルに没頭していたかもしれない。何はともあれ、環境が僕にポケモンをやれと言っていたのかもしれない。

 

サークルの先輩や他大の友人、Twitterの人と接する中で嬉しいことにそこそこポケモンがうまくなれた。少しずつ認知度が上がっていった。今まで努力をしてもそこそこ止まりだったのに、努力の分だけ強くなれるポケモンというゲームが神に思えた。

それから僕はポケモンにのめり込んだ。スポーツだって好きだったし、別に勉強だって嫌いじゃなかった。それでも元々ポケモンというゲームが大好きだった。気付けば何よりも努力してるものへと変わっていった。

そして運も味方してポケモンの世界で14位という数字を残せた。16人しか呼ばれない公式の大会の本戦にも出れた。たかがゲームと思われるかもしれないが、何十万といる中の16人と言うとどの物事でもすごいことだと思う。私の努力が実った瞬間である。

 

自分の努力が実ったものがポケモンであることは事実だ。ただ、ポケモンが自分の努力を実らせたかどうかはまた別の話である。ポケモンに関してはいろいろな努力をした。対戦日記も書いたし、記事を書いて思考整理もした。何より対戦しまくった。でも、果たして僕は他の物事にここまで努力をしたのだろうか。

 

高校の頃の自分は、頭がいい奴には勝てないと決めつけて努力をしてこなかっただろうか。勉強して伸びるのは頭のいい奴だけ、ときめつけてはいなかっただろうか。

小学校の頃の自分は、本当に毎日野球の自主練習を頑張っていただろうか。素振りを100回しただけで喜んで終わっていたのではないか。

 

努力をすることは誰にでもできる。10分の勉強でも、3時間の勉強でも、同じ努力である。だがその努力は本当に自信を持って言えるものであるのか。

みんなのいわゆる天才と呼ばれる人は確かにあまり努力していないように見えるかもしれない。でもそれは、『できるやつは天才と呼び元からできる奴だと思い込むことで自分の努力を正当化する』ことに過ぎないのである。きっとその天才も同じ、もしくはそれ以上の努力をして今があるのではないだろうか。

 

努力に勝る才能なしという言葉があるが、これは天才にも努力すれば勝てるという意味ではなく、努力したものが天才になり結果として勝利する、という意味なのではないかと思う。天才になりたければ、努力という遠回りも一つの道なのではないだろうか。

 

↓サムネ用

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